「私は京極さんに対して何の感情も持っていませんから。契約書に浮気はしないようにとありましたが、相手に好意を持っていることは無いので、浮気には当たりません。もし、翔さんに報告する時はそのことをしっかり伝えていただけませんか?」「あ、ああ……。そのことか。大丈夫、別に俺は翔には何も報告するつもりは無いから」琢磨は気落ちしながら返事をした。(そうだよな……朱莉さんの好きな相手は翔なんだから……)「そうですか、それなら良かったです。それで明日は京極さんに試写会に誘われて、一緒に出掛けることになりました」朱莉の話に九条は驚いて顔を上げた。「え……? 朱莉さん。何故俺にその話を?」「それは、私と京極さんの間にはやましいことは何も無いと言うことを九条さんに知っておいてほしいからです」「それは……俺が翔の秘書だからかい?」「え、ええ……。勿論そうですけど?」朱莉は何故そこで琢磨が悲し気な顔を見せるのか理解出来なかった。そこであることに気が付いた。「あ、あの……もしかすると明日、熱帯魚の餌やりの後に何処かへ出掛ける予定を、もう組んでいたのですか?」「い、いや。そんなことは無いよ」琢磨は無意識のうちにスマホの画面を朱莉から隠した。本当は朱莉の電話の最中、明日何処へ出掛ければ良いかネットで検索をしていたのだった。そこで新緑が美しい景色を観ることが出来るドライブコースを検索していたのだが……。(明日は……無理ってことだな……)琢磨は心の中で溜息をついた。「大丈夫だ、朱莉さん。俺は翔に何も話すつもりは無いから。それより明日どんな内容の映画だったか、後で教えて貰えるかな? 実は俺の趣味は映画観賞なんだ」朱莉を不安に思わせない為に琢磨は笑顔を見せた。「はい、分かりました。それでは明後日の餌やりの時にお話しさせていただきますね。だから……鍵は……」私が預かりますよと朱莉は言うつもりだったが、先に琢磨が言った。「餌やりは毎日俺がここへ来るから、その時朱莉さんも来てくれるといいよ。それじゃ明日は朱莉さんが予定入ってしまったけど明後日ならいいかな? 俺と何処かへ出掛けよう。あ、ついでに『ネイビー』も連れて行こう」「え? ネイビーもですか?」朱莉は首を傾げた。「うん。自然の中で思い切り遊ぶネイビーの姿を見て見たく無いか?」「自然の中で……?」朱莉はその
「そういえば朱莉さん。御昼はもう何か食べたのかい?」琢磨は時計を見ながら尋ねた。時刻はもう13時になろうとしている。「いえ、まだです。教習所からすぐにこちらへ向かったので」朱莉の言葉に琢磨は顔を上げた。「え……?教習所へ通っていたの?」「はい、自分で車が運転出来るようになれば色々な場所へ行けますし、母が元気になれば何処かへ連れて行ってあげられます。それに……」何故かそこで朱莉は目を伏せた。「それに……って他には何かあるの?」「明日香さんに赤ちゃんが生まれたら2年は育てるように言われているんです。やっぱり小さな子供を育てるには車は必要ですよね?」朱莉は何処か寂しげに笑った。「!」琢磨はその言葉を聞いて、一瞬胸が押しつぶされそうな辛い気持ちになった。(まさか……車の免許を取る本当の目的は子育ての為だったのか!?)琢磨は今、沖縄に2人きりで遊びに出かけている翔と明日香に苛立ちを感じずにはいられなかった。幾ら朱莉に十分にお金を渡しているとは言え、ゆくゆくは翔と離婚をすれば朱莉はここから出て行かなければならないのだから。2人の子供を育てさせる朱莉を……!(くそ! 翔の奴め……朱莉さんをここから追い出すときには絶対にマンションの1つでも朱莉さんの為に買わせてやるからな!)「どうかしたんですか? 九条さん」朱莉は急にムスッと黙ってしまった琢磨に声をかけてきた。「え? 別に何も無いけど?」「そうですか? もしかすると九条さんに黙って教習所へ通い始めたこと、気にされたのかと思って」朱莉はしょんぼりした顔で言う。「いいや! そんなんじゃ無いから! ただ、そこまで覚悟を決めて教習所へ通っているとは思わなくてね。それで今どのくらいまで進んでいるの?」「はい、今第一段階なんです。来週から教習が始まります」「朱莉さんはAT車限定なんだよね?」「そうですね、とても私にはマニュアル車の運転は無理だと思いますから」「そうか、早く先へ進めるといいね。それじゃあ、仮免の練習は俺が付き合おうか?」琢磨は何気なく言ったのだが、朱莉の顔が途端に曇った。「あ、あの……それが……京極さんが仮免の練習に付き合ってくれることになっているんです」朱莉の言葉に琢磨は驚いた。「朱莉さんから京極さんに頼んだのか?」琢磨は自分でも気づかなかったが、つい強い口調になって
「あの、九条さん?」朱莉に声をかけられて、琢磨は初めて我に返った。「あ……ごめん」「大丈夫ですか? もう今日はお帰りになって休まれたらいかがですか?」「い、いや。大丈夫だよ。それよりお腹空かないか? 一緒に近くのランチでも食べに行かないか?」すると朱莉が言った。「あの……それでしたら私の自宅に来ませんか? 何かお昼を作りますよ。いつも九条さんにはお世話になっておりますので」「え? ほ、本当にいいのかい?」琢磨は耳を疑った。まさか朱莉の手料理を食べる機会が訪れるとは思ってもいなかったからだ。「はい。いつも美味しいものを食べつけている九条さんのお口に合うか分かりませんが……。では、行きましょう」2人で玄関へ出て戸締りをするとエレベーターに乗り込んだ。その時、琢磨は得も言われぬ良い香りを嗅いだ。そして朱莉の手元を見る。「朱莉さん……それは?」「はい。明日香さんがハーブティーを好きだったので自分の分も含めて買って来たんです。テーブルの上に置いてきました」(知らなかった……いつの間に。やはり朱莉さんは気配りの良く出来る女性なんだ。確かにこういう女性の方が副社長と言う立場の翔にはお似合いなのかもしれないが……)琢磨はギュッと手を握り締めると、エレベーターのドアが開いた。**** 部屋に着くと朱莉は鍵を開けて琢磨を自宅に招き入れた。「どうぞ、九条さん」「はい、お邪魔します……」琢磨は朱莉の部屋に上がり込んで、周囲ををぐるりと見渡した。最初に琢磨が用意した家電やインテリ以外に殆ど物が増えた形跡が見つからない。あるとすれば、ペットのネイビーにウサギの飼育に必要な道具ばかりであった。朱莉は最初に与えらえた品物以外は殆ど買い足していなかったのだった。それ程朱莉は翔の財布にまで気を遣って1年をやり過ごしてきたのだ。「九条さん。今お昼の用意をするのでリビングで待っていて下さい」「何か手伝おうか?」「いえ、とんでもありません。九条さんはお客様なんですからこちらで待っていてください。30分もあれば用意出来ますので」朱莉はエプロンを締めるとキッチンへと消えて行き、琢磨はリビングのソファに座ると目を閉じた。(何だか……いいな……こういうの……)そして……そのまま眠ってしまった。「……さん、九条さん」真上から声が聞こえ、目を開けるとそこには琢
時刻は14時を過ぎようとしていた。朱莉と琢磨はダイニングで食後のコーヒーを飲んでいる時に琢磨が話し始めた。「実は朱莉さんに大事な話があるんだ」その表情はいつになく真剣だった。「大事な話ですか?」朱莉は居住まいを正すと尋ねた。「ああ、そうなんだ。明日香ちゃんが妊娠した話は知ってるんだよね?」「はい。翔さんから聞きました。妊娠4カ月に入ったそうですね」朱莉はしんみりと答えた。「実は翔は明日香ちゃんが妊娠した時は、最初朱莉さんにも妊婦の格好をさせようと思っていたんだ。あたかも朱莉さんが妊娠しているかのように見せる為に」「!」朱莉はその話に驚いた。朱莉が産んだことにすると言うことは契約書には書かれていたが、まさか妊婦の真似事をさせられようとしていたなんて。朱莉は首を振った。「そんな真似……私には出来そうにありません。それに世の中には赤ちゃんが出来なくて不妊で苦しんでいる女性達が沢山いると言うのに、そんな妊婦さんの真似をするなんて。良心が痛みます」琢磨はその答えを聞いて思った。やはり朱莉ならそう答えるだろうと。「うん、だから朱莉さんには申し訳ないが、明日香ちゃんと2人で彼女が無事出産するまではここを離れて貰おうかと思っているんだ」「え!?」琢磨の提案に朱莉は驚いた。「どこか誰も知らない地方都市で朱莉さんと明日香ちゃんには暮らして貰って……あ、勿論それ程遠くは考えていないよ。例えば新幹線で2時間以内とか……海を超えない範囲内で……」「……」朱莉は黙って琢磨の話を聞いている。「勿論、お母さんの面会は無理になってしまうかな……。なにせ段々大きくなっていくお腹を見せることが朱莉さんには出来ないし。でもネットを介して電話で互いの顔を見ながらの面会は可能だし……。それに今教習所に通っているって話だけど、この件だって問題ない。転校することは出来るんだ。その手続きも全て俺がやるから」「九条さん……」「巻き込んでしまって本当にすまない!」琢磨は声を震わせるとテーブルに頭を擦り付けるように朱莉に頭を下げた。「ちょ、ちょっと待って下さい、九条さん。どうか顔を上げて下さい」朱莉は慌てて琢磨に声をかけた。「朱莉さん……」琢磨は顔をあげた。その顔は苦しげだった。「九条さんには本当に感謝しているんです」朱莉は笑みを浮かべた。「何故俺に感謝を?」
「これは何だい?」琢磨は尋ねた。「これは翔先輩が私にくれたマウスピースです。私と翔先輩は高校時代同じ吹奏楽部でホルンを担当していたんです」朱莉の話に琢磨は頷いた。「そう言えばそうだったな。俺も明日香ちゃんも同じ高校だったし。翔が吹奏楽部だったのは知ってるよ。まさか朱莉さんもそうだったとは……」「知らなくて当然です。だって私は1学期で退学してしまったんですから」朱莉は寂しそうに笑った。「翔先輩は私の命の恩人なんです」朱莉は遠い目をするように話を続けた。「入部したての頃の私は楽譜もろくに読めなくていつも同じホルンを担当してた翔先輩に居残り練習をして貰っていました。5月にコンクールがあって、それに備えて一生懸命練習したのですけど、中々上達しなくて……とうとう翔先輩が土曜日なのに、学校に無理を言って部室を開けてもらって2人で練習をしていたんです。その時でした。突然激しい頭痛と眩暈に襲われ、呼吸困難になって倒れてしまったんです。そしてこれは後から聞いた話ですが翔先輩が救急車を呼んでくれて、さらに病院迄付き添ってくれたんです。救急車の中では私がここまでに至った状況を詳しく説明してくれたと……後からこの話は主治医の先生に聞きました」「朱莉さん。何故そんなことになってしまったんだい?」「金属アレルギーだったんです。私、自分が金属アレルギーの体質だったなんて、今まで知らなくて。主治医の先生の話で私はかなり危険な状況にあったそうです。でも翔先輩が私のことをちゃんと見ていてくれたお陰ですぐに原因が判明したそうです。そしてずっと両親が来てくれるまで先輩は付き添ってくれmました。父も母も翔先輩に何度も頭を下げていました。そしてその後私が金属アレルギーだと言うことを知った翔先輩がこのマウスピースを私にプレゼントしてくれたんです。このマウスピースはコーティングされているので金属アレルギーの私でも使えるよって。これは私の宝物です」「そうだったのか……そんな話は初耳だったよ。翔が朱莉さんにね……」「無理もないですよ。だって翔先輩自信が忘れているみたいだったので」朱莉は笑いながら言ったが琢磨にはまるでそれが泣き顔に見えてしまった。「だから私は翔先輩が困っているなら助けてあげたいし、こんな私でも翔先輩の役に立てるのならって。私のことなら大丈夫です」「朱莉さん……」琢磨
今を遡る事約2時間前――明日香と翔は沖縄のホテルのカフェにいた。「やっぱり沖縄は最高よね~。私、海が大好きよ」明日香は満足げにアイスハイビスカスティーを飲んでいた。「そうだな。だけど明日香。お腹の具合は大丈夫なのか? お前のお腹には俺と明日香の子供がいるんだからな?」気遣って声をかける翔。「まあ、今の所は大丈夫よ。多分今回は産めるんじゃないの?」明日香はまるで他人事のようにのんびりした口調で返事をする。「そうか、ならいいんだが……」それでも翔の不安は拭いきれない。前回は子宮外妊娠と思いがけない出来事があったのだ。今回はその心配は必要なくなったのだが……。「翔、私が無事出産出来るかどうか心配してくれてるのね? それで、お父様や御爺様には話したの?」明日香は意味深な顔で翔を見つめた。「話したって?」「決まってるじゃない。子供が出来たってこと。……自分の」明日香は敢えて私の……とは言わなかった。「い、いや。まだ話していない。だって話せば……」「朱莉さんに会いにお爺様とお父様が日本に帰国して来るかもしれない……からでしょう?」明日香はストローでハイビスカスティーを飲み干す。「ああ、そうだ。だから明日香、お前が出産してから2人には話をしようかと思っているんだ」「でもどうするの? 出産後お父様と御爺様に話をしたとして、何故もっと早くに言わなかったと責められるかもしれないわよ? しかも責められるのは翔だけじゃなく、朱莉さんだって。それとも朱莉さんの方から無事に出産するまでは報告しないで貰いたいと言われたとでも報告するつもり?」「……」翔は黙ってしまった。「……まあ……! 翔、やっぱりそうだったのね!? フフフ……貴方って思った通り最高の男よ」明日香は翔にしなだれかかる。「仕方無いんだ……。祖父に反感を買えば会社の後を継がせて貰えないからな。それに後5年で朱莉さんとの契約婚は終了するんだ。だから朱莉さんには悪いが多少の犠牲にはなって貰うことになるかもしれないな。明日香、俺はやはり最低な男だよ……」明日香の髪に顔を埋める翔。そんな翔を優しく抱き留める明日香。「確かに翔。貴方は卑怯な男かもしれないけど、私にとっては最高の男よ? 琢磨がどう言おうとね」「琢磨? 何故そこで琢磨が出てくるんだ?」しかし、明日香は翔の質問には答えずに
「明日香……」翔はベッドに横たわり、じっと天井を見つめている明日香に声をかけた。「……バチがあたったのかしら……」明日香がポツリと言った。「バチ? 何故そう思うんだ?」「だって自分が産んだ子供をこれから朱莉さんに押し付けて育てさせようと考えていたから」「明日香……」翔は明日香の側に行くと髪を撫でた。「明日香、琢磨は何処か地方都市で明日香を出産させようと考えていたんだ。勿論朱莉さんも明日香の近くに置く考えでね。だけどこうなった以上、明日香。沖縄で子供を産むことにするんだ。琢磨にも連絡を入れるよ。そして2人をここに呼び寄せる」「え……ええ!? 朱莉さんまでここに呼ぶの? だってそれじゃあんまりにも……。朱莉さんにだって東京での生活が……」そこまで言いかけて明日香は言葉を飲み込んだ。「大丈夫だ、きっと琢磨が朱莉さんを説得してくれる。それに彼女にはそれなりの金額を払っているんだ。何ならまた手当てを増やしてやってもいいと考えている。そうすれば朱莉さんだってきっと沖縄に来る事を納得するだろうさ。それじゃ電話をかけてくるから、大人しく待っていろよ?」そう言い残すと翔は病室を出て行った。「翔……」そんな翔を見つめながら明日香は思った。(私は今何を言おうとしていたの? 今迄朱莉さんのことなんか気にも留めずに暮らしてきたのに……?だけど翔は……翔は私のことだけを考えてくれている。それについては感謝すべきなのだろうけど……でも……)何故ここまできて、少しだけ朱莉に対して罪悪感を感じるようになってきたのだろうか?明日香は自分の中に芽生えたある感情に戸惑うのだった――****「すまない、朱莉さん。どうやら明日香の出産場所は沖縄になりそうだ」電話を切ると、沈痛な面持ちで琢磨は明日香を見た。「え……? 翔さんは本気で私を沖縄へ……?」朱莉は言葉を振るわせた。「ああ。翔がそう言ってきた。明日香ちゃんは最低でも2か月は病室のベッドの上で安静に過ごしていないといけないらしいんだ。取りあえず翔が俺を呼んでるからすぐに現地へ向かわないと。朱莉さんは色々準備があると思うからすぐには沖縄へ行けないと思うが、当面向こうで生活するのに必要な荷造りはして置いて貰えないか? つまり臨時の引っ越しの準備を……」琢磨はじっと朱莉を見つめた。「……分かりました。翔さんがそ
その日の夜―― 琢磨は沖縄に降り立っていた。鳴海グループの力を持ってすれば、いくら繁盛記の季節とは言え、航空券のチケットを押させることなど造作は無かった。「ふう……しかし、沖縄は暑いな……」琢磨はガーゼハンカチで汗を押さえながら、メッセージをチェックした。そこには翔からの指示で、用意してもらいたい品や、会社の資料。そして入院先の病院の住所や連絡先が記載されている。琢磨はそのメッセージを見ると忌々し気に舌打ちした。「チッ! 全く……俺は買い物要員で呼ばれたのか? 仮にも鳴海グループの秘書の立場にいる俺を何だと思ってるんだ?」 実は琢磨には翔に内緒にしているある秘密があったのだ。それは会長直々に自分の秘書にならないかと打診されていたのである。つまり、琢磨はそれだけ有能な秘書だと言うわけだ。「これ以上朱莉さんをないがしろにするような行いをすれば……翔。俺はお前の秘書をやめて会長側につくからな」琢磨は小さく呟くと、翔に頼まれた買い物をする為に繁華街へと足を向けた――**** 琢磨が翔に言われた全ての買い物を終え、タクシーで病院へ着くと既にエントランスで翔が待っていた。「琢磨! 折角のゴールデンウィークの休み中に突然呼びつけて悪かったな」翔が笑顔で駆け寄って来た。「ほらよ、頼まれていた買い物だよ。全く……俺が東京に残っていたから良かったものの、仮に海外へでも行っていたらどうするつもりだったんだ?」紙袋を押し付けながら琢磨が言うと、翔は少しの間考え込む素振りを見せていたが……。「う〜ん。考えてもいなかった。でも台湾当たりだったら呼び寄せていたかもしれないな」「おまえ! ふざけるなよ!」琢磨は暑さの為もあり、イライラしながら怒鳴りつけた。「す、すまん。今のはほんの冗談だ。そうしたら自分で何とかやっていたさ」「その話……本当だろうな?」苦笑する翔に、琢磨は睨みをきかせる。「あ、ああ。勿論だって」「それで、ゴールデンウィークが終われ、、お前は東京に戻るんだろう?」琢磨は腕時計を見ながら尋ねた。「……」「おい? 翔、何黙ってるんだよ?」「やはり……直ぐに東京に戻らなければ駄目だろうか?」「はあ? 今、何て言った?」「いや……2、3日は明日香の側にいてやりたいと……」翔は目を伏せた。「また明日香ちゃんに泣きつかれたのか?」
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう